海外競馬発売
中華人民共和国(以下、中国)の特別行政区である香港は、アジアはもちろん、世界でも最も競馬が盛んな地区のひとつである。近年の国際化施策の成果から、2016年よりIFHA(国際競馬統括機関連盟)の定めるパートⅠ国となった。開催シーズンは毎年9月から翌年7月初旬を一区切りとしており、馬の年齢はそれぞれの産地に準拠して、北半球産馬は1月1日に、南半球産馬は8月1日に加算される。
東京23区の2倍弱、札幌市とほぼ同じ陸地面積に人口約750万人を有する香港には、シャティン(沙田)競馬場、ハッピーバレー(●馬地/快活谷。●=足へんに包)競馬場の2つの競馬場を、そして、中国広東省に從化競馬場を有する。いずれも香港政府公認の非営利団体である香港ジョッキークラブが主催・経営で、2024年11月時点で通常の競馬開催は香港内の2つの競馬場で行われているが、2019年3月には從化競馬場で、馬券発売を伴わないエキシビション開催も行われ、2026年頃からの定期的な開催も示唆されている。馬券の発売額は、香港での開催単体では減少傾向にあるものの、国外レースのサイマルキャスト発売や国外からのコミングリング・ワールドプール(共同プール)も含むと、2022-2023年シーズンに過去最高となる約1410億香港ドル〔当時のレート(1HKD=約19円)で約2兆7000億円〕の売り上げを記録した。市場規模としては日本、アメリカに次ぐ世界3位で、単一の主催者としてはJRAに次ぐ世界2位、人口1人あたりの売り上げは世界1位となっている。香港内には2つの競馬場のほかに100か所を超す香港ジョッキークラブ直営の場外馬券発売所があることからも、競馬が市民の娯楽として根付いていることがわかる。
それだけに、提供されるレースの質も非常に高い。国内で馬産は行われておらず、競走馬資源は諸外国からの導入によるもので、ヨーロッパ各地やオセアニアから、未出走新馬(約65パーセント)のほかに、既走現役馬の移籍(約35パーセント)も積極的に行われており、2024年の香港ダービーはアイルランドのエイダン・オブライエン厩舎からの移籍馬Massive Sovereignが制覇した。1人の馬主が同時に所有できる頭数に制限(個人で4頭+シンジケートで3頭)があるため、馬主となること自体がステータスであり、馬主としての成功は香港において競馬内外を問わず非常に大きな尊敬の的となる。
レースは一部の重賞や馬齢限定戦を除いて、レーティングに基づくクラス編成とハンデキャップ戦で行われている。トップハンデは135ポンドで固定されており、負担重量はレーティング1ポイント差につき1ポンドの差が設定される。見習い騎手、ローカル騎手には通算勝利数に応じたアローワンスが与えられる。
所属する騎手、調教師共に、ほぼ半数が中国籍を含めた香港ローカルで、他は外国籍となっている。特に外国籍の騎手については、世界各地のトップジョッキーが集まっていると同時に、ここをステッピングボードにして飛躍する騎手も少なくない。ただ、シーズンを通して基準の成績を下回った場合には、次シーズンのライセンスが認められないなどの制約もあり、栄光と挫折が表裏一体。これらのライセンスの取得、維持については非常に厳しいものとなっている。2024年にはブリトニー・ウォン騎手が、2018年に引退したケイ・チョン騎手以来6年ぶりとなる地元の女性騎手としてデビューした。
香港における競馬の始まりは、1912年から1919年までの第15代香港総督で、熱心な競馬愛好家だったフランシス・ヘンリー・メイ卿が編さんした「Notes on Pony and Horse Racing in Hong Kong,1845-1887」からその多くを知ることができる。これによると、イギリスの入植が始まった1840年代に行われたものが最初とされている。新聞などの公式な記録として残っているのは、1846年12月17日と18日の2日間、当時ウォンネイチョンバレーと呼ばれていた現在のハッピーバレーで開催されたものが最初で、竹製のラチで囲われた簡易なコースで行われた。以来、公式な競馬開催は、おもに旧正月の時期に単一、または数日間で開催されるようになった。
これらが発展する形で1884年に組織されたのが香港ジョッキークラブである。香港ジョッキークラブは、全てのレース活動を組織することに加えて、その時点で、まだ独立したプライベートクラブを通して行われていた賭事を全て管理し、それらから手数料を徴収することが目的とされた。
第二次世界大戦後、中国産ポニーや他の軽種馬による競馬から、サラブレッドの競馬へとシフトしていく。1960年にはイギリス王室の認証を受け、ロイヤル香港ジョッキークラブとなる。1975年には当時のエリザベス2世女王陛下を迎えての競馬開催が行われ、同時に香港における全ての馬に関する競技とその周辺管理、運営、促進を一括して執り行うことが決められた。
これと前後する1971年、それまで騎手と調教師は全てアマチュアだったものから、プロライセンス化される。それとほぼ同時に騎手養成アカデミーが開設され、香港プロパーのプロ騎手の育成にも力を入れるようになった。
2018年には中国広東省に從化競馬場をオープン。計画当初は「從化トレーニングセンター」とし、シャティン競馬場のサテライト調教施設としての運用予定でいたが、オープンを控えた年に從化競馬場と名称を変更。ここで調教されている馬はレースの数日前にシャティン競馬場への輸送を経て出走する。從化との輸送歴は公式ホームページ上で各馬のプロフィールに掲載され、レース当日も從化調教馬はアナウンスがされる。
興行面では、1969年にハッピーバレーのスタンドがほぼ現在の形に改修され、1973年にはナイター競馬が初めて開催される。1972年1月には、初めての国際騎手招待競走インターナショナルインビテーションCが開催。現在行われているロンジン・インターナショナル・ジョッキーズ・チャンピオンシップの基礎となる。さらに1978年に新界にシャティン競馬場がオープン。以降はシャティン競馬場が香港におけるメイントラックとなり、1988年には国外から競走馬を招待する香港インビテーションCが、マレーシア、シンガポールから6頭の招待馬を集めて行われた。これが現在の香港国際競走へとつながっている。
また、前述のように2019年3月に從化競馬場で試験的にエキシビション開催が行われた。これは、現在の中国中央政府が直接認可した初の競馬開催で、香港ジョッキークラブ所属の人馬、及びルールで争われたもので、馬券発売はなく、賞金等は全て香港ジョッキークラブの持ち出しによるものだった。
わが国との関連は、戦後以降では、1975年のインターナショナルインビテーションCに、横山富雄騎手(横山典弘騎手の父)が招待されたのが最初となる。横山騎手はPalinurusに騎乗、レスター・ピゴット、パット・エデリー、ビル・スケルトン、ジョニー・ローといった各国のチャンピオン騎手と競い、見事に勝利を挙げた。
競走馬の往来は、1993年4月に行われた香港国際ボウルにホクセイシプレーが出走(14着)したのが最初。日本馬の香港における初勝利は、1995年12月の香港国際カップでフジヤマケンザンが達成した。また、日本産馬が香港所属馬になったケースとしては、Twinkling Star(1998年生まれ。父エルハーブ、母ミスクウォドラティカル)が最初で、2018年に日本産ながら、フランスで重賞を勝利したAkihiro(2014年生まれ。父ディープインパクト、母バーマ)がフランスから香港へ移籍(移籍後、Stimulationに改名)。また同年、クレヴァーパッチ(2015年生まれ。父ハードスパン、母トーコーユズキ)が日本で出走歴のある馬として初めて移籍した(Elite Patchに改名)。2024年11月現在では、5頭の日本産馬が現役で登録しており、そのうち中央競馬からの移籍馬であるLovero(日本での登録馬名ローヴェロ)は今年2月の移籍後初勝利を皮切りに3勝を挙げている。
文:土屋 真光
(2024年11月現在)