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アメリカ競馬の概要

アメリカ競馬の概要

日本にも大きな影響を及ぼしている競馬大国

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沿革(植民地時代)

1492年にコロンブスが西インド諸島を発見したことに端を発する新大陸へのアプローチは、その後カリブ海から北米大陸の東海岸へと広がっていった。その100年後にはバージニア州、ニューヨーク州、南北カロライナ州の各所に街が築かれ、それらを拠点に開拓の矛先は大陸内部へ向いていた。バージニア州の大半は森林に覆われ、しかも大木が多い。開墾には馬が必要だったが、そこに住むインディアンの部族は馬を持たず、開拓者達は馬を生産する南部の部族と接触し、アンダルシア馬を購入しバージニア州へ連れ帰り生産を始めた。

英国移民による植民地最初の中心都市バージニア州ジェームズタウンは1607年に建設。その後、地域コミュニティの余興として競馬が1620年頃から始められ、さらに英国で競馬に関わりを持っていた人材が、新大陸に到着し始めた。こうした初期の競馬は苦労して確保した開墾後の狭い場所で行われ、つまり一般道路を利用し少数頭で行うようなもので、これがその後しばらく北米競馬の主流となるヒート競走の発端となる。ヒート競走というのは定められた距離を数回走らせ2回以上先に先着した方が勝つというものだ。レース間に数週間時間を置く現代競馬と比べると馬には酷な話だが、米国競馬黎明期の名種牡馬レキシントンもヒート競走により名声を得て、種牡馬入りしている。その後も少ない頭数ながら継続的に英国から馬の輸入は続いたが、反英感情が高まり独立戦争が勃発する直前から馬の輸入はしばらく禁止されることになった。

南北戦争とケンタッキー州産馬の台頭

独立戦争後に米国が直面した次の大きな試練は1861年に始まった南北戦争である。現在米国馬産の中心地であるケンタッキー州は中立を保つことに成功し、戦禍を逃れてバージニア州など他の地域から多くの馬が、ケンタッキー州中心部にあるレキシントンへ移ってきた。その後、米国の多くの州で賭博禁止令が施行された時期があり、競馬関係者にとってはまたも受難の時期を迎えたが、ここでもケンタッキー州政府は中立を保ち、さらに多くの有力人馬を引き寄せることに成功し、競馬産業の首都としての基盤を固めた。こうした流れで同州競馬界は政治力や財力を備えるようになり、他州の競馬主催者との競争に勝ちケンタッキーダービーを米国を代表するレースとして確立することに成功した。現在米国では約17,300頭のサラブレッドが生まれ、そのうち約7,900頭が同州産馬として登録され、米国の40パーセント超のレースに優勝している。

南北戦争終了後はこれまで各地で草競馬として行われていた競馬が徐々に整備され、各地域の有力者達が結束し、英国式の競馬に習い競馬開催設立に動き始めた。現在も米国の比較的大きな競馬場では英国のジョッキークラブに習い、「ターフクラブ」または「クラブハウス」という名称の有力者の組織を形成している。それでも貴族の趣味として発達した英国とは違い、「祭り」として発展してきた米国の競馬は開放的で、隣でホットドッグを齧っている男性が実は大富豪だったということは日常茶飯事である。その後、時間をかけて今のダート主体で短・中距離のレースが多い今のスタイルが各地で確立されていく。各州はそれぞれ独自の競馬法を制定し、競馬主催者は民間企業としてレースを施行している。

近代競馬の確立

東部州が中心となって進められた競馬の近代化に対して、対抗心を抱く西海岸の有力者達が台頭し、スワップスやシービスケット等のトップクラスの馬が出現する度にそれまではとは違った東西対決の構図が生まれてきた。米国では「カリブレッド」という言葉がある。これは「カリフォルニア産サラブレッド」の短縮形で、西側の人には自尊心をくすぐる言葉だが、東部の面々には「田舎馬」という揶揄を込めたものである。1937年に開場したデルマー競馬場はサラトガ(ニューヨーク州)の夏開催に対抗したもので、カリフォルニア州南部の中心都市サンディエゴ北郊に建てられ夏季の社交と、米国西半分の夏競馬の中心地として現在も高いレベルの出走馬を集めている。そしてハリウッドパーク競馬場(ロサンゼルス)閉鎖に伴う番組変更により、秋競馬開催も担うようになり2017年にはブリーダーズカップ(※後述)開催も行った。

ノーザンダンサーが導く国際競争への道

新大陸と旧大陸。両者のライバル意識は競馬界でも存在したが、全く違う競馬スタイルで行われており、また大西洋という物理的な壁もあり、以前はそれほど交流が進んでいたわけではなかったが、ある名馬の出現で状況は一変する。その馬は1961年にカナダで生まれたノーザンダンサー。5月下旬生まれの鹿毛の小さな田舎馬は3歳時にケンタッキーダービーとプリークネスステークスの2冠を達成し、カナダ最大で北米最古の重賞競走であるクイーンズプレートに優勝する。しかし、同馬が競馬界にインパクトを与えたのは種牡馬入りした後で、産駒が欧州大レースで勝ち始め、サラブレッド史上最大のブームを巻き起こす。しかも牡駒の多くが種牡馬としても優秀で孫も走る。ヌレイエフやニジンスキー、リファールやストームバードは欧州で競走後、ケンタッキー州で種牡馬入りし、交配のために多くの繁殖牝馬が欧州から米国へ移り、米国で生産し欧州で競馬に使うというスタイルが確立する。また米国産馬により欧州競馬に挑戦する野望を持つ米国財界人が増加し、両者の交流が進んで現在に至る。またノーザンダンサー系の発展は、サラブレッド業界にビジネスという側面があることを米国競馬人の脳裏に植えつけ、セリ開催方法や、セリ馴致、共同所有システム、スポンサー制度など多くのビジネスモデルが米国で確立し、またそれに加えて獣医学、農学、飼養学など関連分野へ研究資金も潤沢に流れて学術面でも米国は存在感を強めている。

一方、日本との関わりも深く、戦前から米国馬の輸入は行われていたし、スタミナの欧州からスピードの米国血統へシフトする生産者が増え、前述のノーザンダンサーブームに始まり、その後台頭したミスタープロスペクター系やサンデーサイレンス系も含め、現在多くの日本馬の血統に米国馬の影響が読み取れる。競馬では1958年にはハクチカラが日本産馬として初めて渡米し、翌1959年にはワシントンバースデーハンデキャップで当時の有力馬ラウンドテーブルを破って優勝。同馬の主戦騎手であった保田隆芳は「モンキー乗り」という新しい騎乗方法を米国から持ち帰っている。そして2005年にはシーザリオがハリウッドパーク競馬場で行われた国際招待競走アメリカンオークスで圧巻の追い上げで優勝を果たしている。米国産馬が日本でデビューして活躍する例も少なくなく、エルコンドルパサーやシーキングザパール、ヒシアマゾンやタイキシャトルいった馬名を挙げれば、ファンの皆さんにも米国が身近に感じられることだろう。

ブリーダーズカップ

米国競馬を語る上で、もうひとつ忘れてはならいないのがブリーダーズカップ開催である。これは競馬興行の先行きに不安を覚えたケンタッキー州の有力生産者ジョン・ゲインズが提唱した構想で、種牡馬所有者や繁殖牝馬所有者から提供される資金から高額賞金を捻出し、各カテゴリーの王座決定戦を晩秋に、しかも1日で行うというものであった。この取り組みの裏には他のプロスポーツに負けず、世間の関心を競馬に引き寄せたいという米国ならではの事情もあった。それまでにない大規模な競馬の祭典。しかも生産者が中心となって企画・実行されたこともユニークだ。1984年に7競走から始まったブリーダーズカップは、現在14競走を2日間で行われる秋の北米プロスポーツの主要イベントのひとつとして定着。今年40周年を迎えたこの開催は、毎年欧州をはじめとした他国からの挑戦者も受け入れて、多くの競馬人の夢を実現させる場となっている。

21世紀に入ってアメリカ競馬は変革が進んでおり、全天候型馬場導入やカジノとの共存共栄も模索されている。また、州ごとに決められている競馬ルールの一元化など、国際化に向けた取り組みも続けている。日本でも知られたブリーダーズカップやケンタッキーダービーはもとより、それ以外のレースへの外国馬招致に熱心な主催者が増えており、今後日本からアメリカへ挑戦する機会は増えるだろう。また日本のダート馬の目標として、良き友人として、そして良きライバルとして、馬や人、競馬興行、学術などあらゆる分野で日米交流は続く。

文:吉田 直哉
(2023年10月現在)

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