「ほらこの」すね」・タケシバオーと原田さんのそれとして受けるという。があり、圭堂舌もふるうが親しみがこもっていであることを大久保氏に言うと、逃げ帰るらしいよ」「喧嘩なんかとんでもない」はかるそうだ。と私がいうと、三井氏が、しいらしい。外は冷たい雨が降っている。原田では子供のように無邪気である。いよ」と大久保氏。走るはずだという。い人を知らんよ」「子供のころから馬がすきだった。私よりはやくから馬に乗っているからだろう、馬の仕上げかたは私よりずっと上だ。血統にもくわしく、内国産馬については、あれより詳し三井氏は「私は二皮もらわれた」とぽつりと言う。一度は川崎敬次郎氏のもとに入門したこと、もう一度は三井家に入ったことである。また、戦時中の内地における軍隊生活では、暗い経験をもっている。入隊当初は馬の師匠として相応の待遇を受けたが、敗戦の色が温くなるにつれて梯相がかわった。古参兵たちが南方へ輸送される途中、船が爆賠を受け、死を免れて帰ってきたからだ。彼等は荒れていた。少しばかり古参であるという理由によって、ずっと年上の三井氏たちに毎日のごとく精神バットをくらわせた。「あの人たちもあの煩をどう思っているかな」とあくまで静かにつぶやく。タケシバオーについては、三歳の調教のとき、三井氏が「これは走る」とその後の活躍を予想したというのに対し、大久保氏は、北海道におけるレースを見ても「まさかこんな厩のタケシバオーは、いかにも元気そうだった。馬手の原田さんが、床の槃をおもてにかきだし、そのなかからゴミとなった細かい薬くずを取除いているところだった。その作業は毎日おこない、馬が毎晩ふっくらとした床に寝られるようにする。原田さんが忙しくっと見下ろしていて、原田さんの体が馬のロにとどくところにくると、すかさず肩にかみつく真似をする。原田さんは、そんなことは知らぬげにせっせと体を動かしている。そういう光景が、おそらく馬と馬手との関係なのだろうと思うと、私はちょっと羨ましくなの尻にまわる。馬がドドッと音をたてて尻で原田さんを壁におしつけようとする。るようなもので、どの師の指図でも自分の師しかし、三井氏と大久保氏とでは、受ける感じが大分ちがう。三井氏が口数のすくないものしずかな人であるのにひきかえ、大久保氏は気さくで開達な感じである。馬手との会話を聞いていても、三井氏が一言か二言つぶに走るとは思わなかった」と述懐している。やくように再うのにたいし、大久保氏はきびきびと指図する。指図は鋭い口調だが温かみるので笑いが湧く。氏にたいする馬手の態度にも親愛の硝がにじんでいる。二人が対照的「京都の兄は、あれ(三井氏)よりももっ前で働いていると、タケシバオーはそれをじとしゃべらんぞ。報道関係者はいつも困ってと笑う。大久保氏と三井氏は年令も二つしかちがわないので、子供の頃の思い出、たとえば喧嘩をした記棺などないだろうか、とニ人に別個にたずねると異口同音であった。この関係が、そのまま、六十一歳、五十九歳になった今日まで続いているわけである。大久保氏は三井氏のことをこういう。と鋭く叱ると、馬体はぴたりとそこにとまった。体温計は肛門にさしこみ、一日に二度「異常があれば、それですぐわかるわけで「いや、異常なんか、朝、馬の頻色を一眼見ればわかるもんだよ」という。タケシバオーは、ちょうど午後の運動に出かけるところであった。原田さんが馬の前の二本の横棒をはずすと、タケシバオーはとたんに首をふり、体をゆすり、前脚でトコトコ音をたてる。外に出されることがわかって嬉さんが馬のカッパを手にすると、タケシバオーはいちはやく大きな体を厩の隅にちぢこませて、嫌がる格好をする。ユーモラスである。カッパが頭にまですっぽりとかけられる頃には観念してじっと首の下のヒモをしばられるのを待っている。準備ができると、原田さんは外に曳きだし、ぱっとその背にまたがって雨のなかに消えて行った。レースに勝って馬場から姿を消すときのタケシバオーは、横綱相撲をとった力士が花道からひきあげるときのような貫禄を見せていたものだが、厩原田さんは攻馬も自分でする人だが、タケシバオーが出走するたびに馬を絶好調にもって行く。若い人だが腕がいいのであろう。以前は大久保厩舎の騎手であったが、体が大きくなったため、乗り役を断念した。「真面目一点ばりの男だ。馬の而倒見がい調教は、一周を一〇六ぐらいであがるように三井氏は指示するが、馬が一本気なため、どうしても馬なりで一〇一ぐらいの時計をだしてしまう。それがなおればレースでもっとタケシバオーの隣りの四歳馬は、ちょうど無心に飼葉をはんでいるところだった。飼葉は上部からつるした底の浅いカネのタライにる。やがて原田さんは、体温計をもってきて馬35
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