していた。競馬場で起こった。その日の日経新春杯は「日本で敵なし」のテンポイントの渡英前のお披露目だった。66.522 キロの重ハンデが課されていたが、小川調教師は敢然とGoサインを出した。_力月後の二月二十三日の大安には栗東を出発して海外遠征が決まっていた。ンポイントが、四コーナーで左トモを落としてすぺった。次の瞬間、栗毛の巨体が重心を失った。アッという間の出来事だった。それでも惰性で五十”いは走っただろうか。馬から下りる鹿戸騎手。テンポイントの左トモはプラブラだった。粉雪の霙う中、ファンは美しい流星の貴公子がたくましくゴールを駆け抜けるシーンを信じて疑わなかったが、不運にもテンポイントは永遠にゴールインすることが出来なかった。エリモジョージの福永洋一騎手が「骨折した時、ポキッという音を聞いた」と言ったが、救急馬運車で出張馬房に戻ったテンポイントは膝の下から骨が見え、鮮血が吹き出診断の結果は、「左第三中足骨喀開骨折及び第一指骨複骨折」。普通の馬なら安楽死のケースだが、高田オーナーはじめ関係者の「助かるものなら奇跡を信じ、全力を尽して立ち直らせる努力をしたい」という願いでその生命力にかけることになった。応急処置を取られたテンポイントは粟東に戻り、翌二十三日午後、三十三人の獣医が立ち合い、二時間の大手術を行った。骨折個所を4本のピンで止め、手術後麻酔が切れてもテンポイントはよく痛みに耐えた。骨折から九日後には「ヒェーツ」「ヒェーツ」と腹をよじるような奇声を発し、その翌日には、褥癒(床ずれの一種)の兆候が出始め、熱も上がり、呼吸も乱れ、ピンチを迎えたが、それでもテンポイントは精神力で耐えた。そして三週間後の二月十二日には栗東診療所の松水課長が「生きる見通しが強くなった」と注目すぺき発言もした。だが、それも束の間、十五日ごろから最も恐れていた蹄葉炎の兆しが現われた。右後肢蹄底の膨隆が顕著となった。両鼻からも出血した。食欲も二日には、右後肢の蹄底部の角質が遊離、四日にはハンモックで支えても立っていることが不可能となり、横臥に移した。病魔は早い勢いでテンポイントをむしばんでいった。全国のファンの絶叫にも似た助命願いもあり、高田オーナーは決断をしかねたが「安楽死」さ沸馬エリモジョージをさしおいてハナを切ったテ減退し、全身やせ衰え、目にも光がなくなった。三月• 3強時代.を飾るハイライトはこのレース、昭和52年の有煕記念。トウショウポーイ、グリーングラスを退け、悲願の日本一となったテンポイントだったが、これが最後の勝利でもあった
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