HTML5 Webook
3/57

いていた。RYである。生じる。の7である。プニ世)である。(1ポ0イント)で、馬だった。ポイントだった。4歳になったテンポイントはクラシックに向けて早々に関東に移動する。しかクライムカイザーに半馬身差、つづくス。フリングステークスでもメジロサガミには「テンボイント恐るるに足らず」という声も出はじめていた。そしてそこに現れたのが生涯のライバルとなり目標となるトウショウボーイだスぶりが評判となっていた関東のホープってテンポイントの調整に微妙な狂いが独壇場となった。1番人気に支持されたテンポイントはトウカンタケシバ、ボールドシンボリ、クライムカイザーとの2ボーイとは着に敗れている。レース中に左前脚FEを骨折したのが敗因だった。こうして4歳春の関東遠征は失意のうちに終秋。骨折も癒えたテンボイントは京都J4勝)がいた大か賞う典。3菊着花を賞スはテシッードプ(に単し枠て指菊定花)賞さにれ321uY向たSん貧(馬伝染性貧血)の疑似感染馬と診断さるウイルス性の伝染病で、発病した馬は高熱をくり返しながら痩せ細っていく。戦前には伝貧によって牧場や地域の馬がが義務づけられている。ることになる。それからクモワカに伝貧の症状はまったく見られになれるだろうと判断した山本は馬を北を受けいれてくれたのが吉田牧場だった。馬となり、ロサクラ)という牡馬を出産するのだが、しい馬だった。体は栗色に輝き、目元はおこす。これが世にいう「クモワカ事件」裁判は4年間つづき、63(3昭8和年)9月28日にクモワカとそのこどもたちはサラブレッドとして再登録されることになる。この間もクモワカは健康なこどもを出産しており、裁判が結審する4カ月前に誕生したのがワカクモ(父カバーラッ57(昭和32年)には天佑(父ヒし、関東初戦の東京4歳ステークスではクビ差と小差での勝利だった。嗚り物入りで関東にやってきた評判馬は無敗の5連勝を飾ったものの、関東の関係者から2頭の初対戦となった皐月賞は関東の厩務員組合のストによって1週延期となり、東京競馬場の開催となる。これによはたして皐月賞はトウショウボーイの済争いに勝つのが精一杯で、トウショウつづくダービーでもクライムカイザーURトウショウボーイ、クライムカイザーのワカクモは母が2着に負けた桜花賞に勝つなど7歳まで走り、53戦11勝というだのがテンボイントだった。テンポイントは産業機械関連企業の重ニングセンターの小川佐助調教師に預けこし大きめの活字で報道される馬になってほしいという、高田のささやかな願いが込められていた。すずしく、額から鼻筋にかけては形のいぃ五流星クが流れている。ただ、体は全のレコードタイムで飾ったテンポイントは、京都のもみじ賞も9馬身差、さらに阪神3歳ステークスも7馬身差で独走すったポールドシンボリ(4戦5馬身という決定的な差がつる。3戦3勝。関西に華々しく登場したれた。伝貧は蚊や虻を媒体にして感染す全滅したという話もあったほど馬の関係者には恐れられており、家畜伝染病予防法によって感染馬は安楽死処分することしかし、馬主の山本谷五郎は愛馬を殺すことができず、クモワカは研究用の馬として京都競馬場の隔離厩舎で飼養され3年。隔離厩舎で生き延びたなかった。そして、これならば繁殖牝馬海道に移動させる。このとき、クモワカクモワカは丘高という血統名で繁殖牝1年後になって日本軽種馬登録協会は丘高と天佑の血統書を抹消する。丘高は伝貧で殺処分にされたはずの馬だというのがその理由だった。納得がいかない関係者は軽種馬登録協会を相手取って裁判をった。3戦3勝、スケールの大きなレー成績を残して繁殖牝馬となった。そして2年めにコントライトを種付けしてうん役だった高田久成に買われ、栗東トレーられた。高田は最初に持った馬が吉田牧場の生産馬だったことが縁で吉田牧場と親交のある馬主だった。名前のテンポイントとは活字の大きさ当時の新聞の本文(8ポイント)よりもすやがて「流星の貴公子」と呼ばれるようになるテンポイントは見た目にうつく体に細く、どことなくひ弱な感じのする3歳夏の函館のデビュー戦を10馬身差3歳馬の評判は関東にもとどろいた。関東には朝日杯3歳ステークスで連戦連勝のアメリカ産馬スピリットスワプスを破が、最優秀3歳牡馬に選ばれたのはテン苦渋を嘗め続けたクラシック戦線びBA゜2 こも61キロのハンデをも1977年の天皇賞・春。ライバルたちを躁散らし、念願のビッグタイトルを手に入れた1977年の初戦京都記念・春を圧勝して、本格化を印象付けた1977年の鳴尾記念℃このともせず、快勝した

元のページ  ../index.html#3

このブックを見る