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人呼んで「流星の貴公子」。ー数奇な生い立ちを背負って走った、そのあまりに悲劇的な最期は、日本中の競馬ファンの涙を誘った。テンポイント日ー|053月5日の朝だった。テンボイントは73(4昭和8年)4月19日7(明治30年)とされている。当初は軍馬になった52年11月に当時流行していた伝年3月5日どんなに時間が過ぎようとも、ぜったいに忘れない日がある。1978日本中の競馬ファンがテンボイントに別れを告げた日である。42日前の日本経済新春杯。最後4のコーナーにさしかかったとき、突然テンボィントの腰が落ちた。「左第三中足骨路開にあたる部分)の複雑骨折で、普通ならば内部の血液の循環が阻害されることで炎そのまま安楽死となるほどの重傷だった。症をおこし、激しい疼痛をともなう症状オーナーの高田久成は一夜考えた末に安楽死を決断するのだが、「テンボイントいに衰弱し、尽きた。を殺さないで」という電話が殺到し、ファンの声に押される形で手術を決行する。日本中央競馬会は獣医師33名によるチームを組み、砕けた骨を4本のボルトでつっている。テンポイントのいのちが繋がる可能性はきわめて小さかったが、だれもがわずかな確率にすがっていた。げられ、競馬を知らない人もテンボイン房で闘病するテンボイントのやせ細った姿は人々の涙を誘った。一時期、体温も心拍数も安定し、良好クモワカ(日高種畜牧場生産)からはじめという報道もあったが、それもほんのひに北海道勇払郡早来町(現安平町)の吉田牧場でうまれた。吉田牧場は日本でもっとも古い牧場のひとつで、創業は189の生産牧場だったが、20(9大)年正には産馬が活躍するのは戦後になってからで、ヒロイチ(5年5オークス)、オーカン(5年9オークス)、リュウズキ(6年7皐月賞)など多くの名馬を送り出してきた。2着にもなったほどの馬だったが、5歳(昭和53年)3月忘れられない日、骨折並びに第一趾骨複骨折」による競走中止。左うしろ脚の蹄の上部(人間の指なぎ合わせる前例のない大手術をおこな手術後の経過は連日メディアによって報道された。一般のニュースでも取りあトの容体を憂い、日本中から手紙やお守り、折り鶴が届く。それらが飾られた馬とときだった。やがて体を支える右後肢の蹄が耐えられなくなり、蹄葉炎||蹄ーを引き起こしたテンポイントはしだサラブレッドの繁殖牝馬を導入し、競走馬も生産するようになる。吉田牧場の生テンポイントの誕生については祖母のなければいけない。クモワカは桜花賞で1978□ 1976年3月、スプリングSを快勝して、トウショウボーイとの初対決への期待が高まった2012 FEBRUARY -YUSHUN 122

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