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実(作家)天皇賞の思い出皐賞、1回年の天皇四月二十九Flo前夜からの雨は朝になって止んでいたが、まだ羹り空で、午前のレースは渋い頸馬場であった。が、午後になって青空が見え出し、陽光が輝き出した。そして、第九レースの天綺麗な楽隊行進に続いて、各馬が入って来る頃には、馬場はやや直の程度に乾リュウファーロスナスノコトプキバリモスニセイヤマニリュウ合:··:·:·…••苓ニチリソタイヨウが、思い出がある。お出で下さい、くまで出馬表を調べた。いて来ていた。ハツライオータイクラナゲソカイアポオソワードチトセブライムスピードシンボリカプトシロー十三頭の馬がファンファーレの合図でゲートに入りだした頃には、流石に広い東都の説馬場もファソでギッシリ一杯であった。恐らく五万を越しているのではあるまいか。今年の春競馬は、ストで何日も流れたので、この天皇性が最初の皮切りの大レースになった。それで待ちかねていたファソがドッと押し寄せたのであろう、私もその一人であった。天皇営に就いては、自慢にはならない話だ私の母が八十二歳で亡くなる時、老哀病でもう数日前から時問の問題だと言い渡されていた。それで、四月二十九日の朝、家内と相談して、天皇償レースを見たらすぐ爽直に家に帰って来る。万一の場合にも競馬場に電話して来るな。そう打ち合せして出掛けた。そして、いよいよ天畠買レースの各馬が合図でスタート・ライソに集まり初めた時、拡声機が大声で私の名前を呼んだのである。お家から漏話が掛っていますから至急競馬事務所までかせて知らせてくれたのである。お蔭で、私の親不孝振りが皆に知れ渡ってしまったが、ー—だから、その時の天皇宜レースはいまだに印象深い。その時の優勝馬はトサオーで騎手は今日のスビードシソポリの野平祁であっ何とか自分の眼でレースを楽しみたい。そう思って昨日までの東京での仕事を無理に段取りして、雨の中を夜の飛行機で大阪に帰って来た。そして、家族の者に笑われながら、遅。t 秋の天皇賀は関東だが、春の天屯牲だけは私の年少の友人が気を利今賞秋田765432ー安こ1 松高諏武森宮松永橋高成訪弘本本保平13 12 11 10 , 8内久池野北栗藤田江祐橋田29 第55 ■F•一

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