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「ほう」ない。守せよ。「ああ、そうか」「さっきの娘、わたしの孫ですよ」「富久の娘です」「あれはどこの子だ」「野平の息子だ」のだと胸をなでおろした。課となった。れるという。たからである。これもやむをえない―つのJi怯なのかもしれ「だれか客か?」「うん、北海道の」「北詢道の誰だい?」「あなたの奥さんの甥よ」0分諦めて辞した。「競屈会への注文があるんですが」スの発走が一0分から一五分遅れとなるのができるのだ。野中氏は下足を見て、野平凪舎は棟があちこちに散在している。それは棟のわりふりを決めたとき、野平氏が中山の組合長をしていたため、まず他厩舎の棟を決めてから、残りを野平厩舎のものとし厩の坂側の窓は細かい金網が張りめぐらされ、猫の仔一匹はいれない。表側も夜分はがっしりした金網の犀でおおわれる。だいたい厩に金網などというとりあわせは、趣きも風偵もなく、冷やかな視代性を感じさせるが、先煩のバスターポ件などと考えあわせると、厩のつづきの部届から一四、莉歳の女の子が顔を見せた帰りがてら、野平氏はくすんと笑った。孫が「あなたの奥さん」などという、なかなか楽しそうな一家である。古い話だが、野平調教師の父は御料牧垢の見まわりをしていた。少年の野平氏は、ときどき父にかわって馬にまたがり、見まわりをしていた。あるとき紺性のつよい馬にまたがって見まわりをしていたところを牧揚の係長である砂山さんという人の眼にとまった。こうして、野平氏も牧場で働くことになっい雷の中を人馬もろとも崖から落ちて気を失った。ふと気がついて馬を起こし、方角もわからぬなかをやっと家にたどりついたのが夜の九時、手足が浪り、よく凍死しなかったも野平氏は荒っぽい秤馬まで乗りこなしたので、種馬の係りにされる。午前中は種馬の面倒を見、午後は二歳馬の追述動をするのが日そのうち、自分の手がけた馬が根岸のレースに出るのを見に行った。生れて初めて見た競馬楊に氏は眼を見はった。芝生の美しさ、馬曳きと馬の手入れの美事さ、馬の常足のよさ、どれもこれもが若い野平氏の心をしっかりと捉えてしまった。氏はたちまちにして、騎手になりたい志をいだいた。だが、希望に胸をふくらませて中山を訪れた少年野平氏の心は、無残にも打ち砕かれる。勧められるままに泊ることになったその夜、氏が見た光景は、いれずみをしたヤクザ辿の博打場であった。こんな述中に混って過すことを思うと、すっかり嫌気がさし、氏はそうした紆余曲折はあったが、昭和元年に秋山辰治のもとに入門した。初騎莱が昭和四年、初勝ちが昭和六年の六月八日であるから今の騎手には考えられぬ苦労をした。のち田中和一郎厩舎所屈となり活躍したが、体重が重く、八九勝で現役を退く。調教師になってからは無数の重賞競走を手中におさめたが、なんといってもスビードシンボリの活躍とローレル遠征の業紐が光っている。去りかける私を野平氏が呼びとめた。注文の―つは、レース前に馬が装鞍所に入っていなければならない時間を現行の九から六0分に改めよ。もう―つは、重宜レー慣例となっているが、これを改めて時間を厳装鞍所に入っている時間は、外旧では六分が普通であり、現行の九0分はいたずらに馬に不安と緊張を味わせている。装鞍所という密閉された状態のなかで、競走馬はレースを予知し、ある馬は不安におののいて哀えがとまらず、またある馬は気負いたって汗びっしょりになる。よりよいレースをするためには、この時間のロスは著しいマイナスだ。発走時間の遅れは、原因がファンヘの馬券発売にあるとしたら、売場をもっと増やすべきである。ファンとて長い時間列に並ばせられるのは容易でないはずだ。現在は、馬が装鞍所に入ってからスタートまで二時間あまりを要している。これではよいレースができないばかりか、馬がかわいそうだ。もし、装鞍所における時間を六0分にし、スタート時間を厳守すれば、一時間近くも短縮することが以上が野平氏の言い分だが、当然に思える。競馬会の早急な改正策を期待したい。。t 根定の牧楊では、こんなこともあった。深cこ30ー ゼットシンボリ•ひまわり賞に勝ったゼットシンポリ63

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