<7ー>西広祥りませんでした。大きくなるにつれて急速にする。孟名えてから話すところなど、祐ちゃんのお父さんらしいなヽという気がする。「あれは小学生の頃、あまり成績がよくあかわり、やがて西郷隆盛、勝海舟などの本を読んで感化されたようです。時節柄を考えて私は鉄道員にしようと思って鉄道学校に入れました。機関士でも車掌でも永くやれる職業につかせようと思ったのです。とにかく、戦争を迎えて、競馬などなくなりそうな時でしたからね。ところが、あれは兵隊を志願して佐倉五七連隊というところに入隊しました。それから北支、中支に渡って終戦の二年後に復員してきました。照いたことに人間ががら「ものごとに無頓着になり、軍隊式のところがまるでないのです。一種の虚脱状態のよおみやげに向うの米を五升ほど持たされてき「それは中国の共産軍ですか、国民党軍で私は共産軍と見た。多感な青年が西郷降盛、野一舎、うまや訪問llポ-リAの野平‘んので••…•」る。のです」野平調教師は、「そうですか」しばらく思案にふける。「では富久のことから話しましょうか」「小さい時の話を……」うことでしょうか」すか」「わかりませんな、それは」りと変わっていました」「どう変わっていたのでしょうか」うでした」「抑留中に苦労されたのでしょうか」「いや、そんなこともなかったそうです。ました」「スピードシンボリをョーロッパに送りだした話を伺いたいのですが、今日はひとつ、野平三兄弟の小さい時のお話などから聞かせていただけませんか。あまり知られていませちょっと見当ちがいな質問に面食ったのかと一言いって腕組みすると、無言のまま、野平省三調教師は、紹介するまでもなく、野平富久調教師、野平祐二騎手、野平幸雄騎手のお父さんである。調教師名簿には明治三三年五月の生れとあるから、六九オのはずだが、でっぷりと太った体駆、日焼けした顔、考えぶかげな眼、とてもその年には見えず、和室のテープルをはさんでどっかりと構えた姿は、五十代の地方政治家といった感じであ野平氏はおもむろに腕組みを解いてこうきりだした。沈黙して待っていた私は、ホッと勝海舟の影署を受けて軍隊に志願し、敗戦を経験、中共軍に抑留されて「一種の虚脱状態」におちいったという過程は思いあたるところがあるが、深入りは避ける。「あれは馬乗りとしては下手でした。それにひきかえ、祐二のほうは親の口から言うのも変なものですが、レースのなかで馬のペースを感じとるのは巧いですね」「ガキ大将で幼稚園の頃は近所の子供の親御さんから始終苦情をもちこまれて、私は謝まり通しでした。からだは小さかったのですが相撲が強くて、大きいのを投げとばしたも「足腰がつよく、運動神経がよかったとい「それから水泳が得意だったですね。多岸川の洪水のときに向う岸に泳ぎわたったりして流木にやられないかとはらはらさせられました。虫とり、魚つりも好きで、遊びに出ると夜八時頃まで帰ってきませんでした。わがままでこの先どうなることかと思いました」しめしめと私は思った。非のうちどころのない祐ちゃんも、少年時代は親に心配をかけたことがあるのである。¢弓んまと聞きだしたぞヽと私はひそかに悦にいる。祐ちゃんは昭和一七年、関東中学在学中に■『'1'/'¢·60
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