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K7)KCMY 奥平真治が北海道虻田郡洞爺村(現・洞爺湖町)のメジロ牧場でメジロラモーヌを初めて見たのは、同馬の1歳時、1984年夏のことだった。奥平は厩舎開業14年目。73年の有馬記念をはじめ、いくつもの重賞を制していた。「メジロの馬を預かるのは、ラモーヌが初めてだったんです。それほど目立つ馬ではなかったですね」 翌85年7月、ラモーヌは函館競馬場の奥平厩舎に入厩した。担当厩務員に小島浩ひろ三みが指名された。「ずいぶん腹袋のある馬だな、と思いました。それだけ胸囲があって、心肺機能の強さにつながるわけですから、悪いことではありません」 競馬場のパドックでは入れ込むことが多かったのだが、普段はおとなしく、物音などにも動じず、扱いやすい馬だったという。 奥平がラモーヌの素質を感じたのは、函館での調教だった。「体質的に弱いところがあって、牧場ではあまり調教をやっていなかったんです。メジロとしては、ほかにいい馬がたくさんいたし、あまり期待していなかったんじゃないですか。ところが、馬場に入れてちょっと速いところをやると、すごくいい動きをしたんです」 小島も同じように感じていた。「2週間くらい15−15をやっているうちに馬が見る見るよくなって、これは面白いかもな、と思いました」 デビューは同年10月13日、東京ダート1400㍍で行われた旧3歳新馬戦。芝からダートに変更されたこのレースで、小島太を背に、2着に3秒1の大差をつけて圧勝した。「走るのはわかっていたけど、これほど強いとは、驚きました。」 そう話す小島と小島太は従兄弟同士である。小島はつづける。男厩舎の調教助手、山下高弘が乗り、追い切りには河内が騎乗した。 4歳牝馬特別では、直線入口で後方まで下がる局面がありながら、直線で鋭く追い込み快勝。心配された馬ごみも、稍重馬場も、軽くこなした。 断然の強さから、第46回桜花賞でも単枠指定を受けた。フルゲート22頭という多頭数の5枠13番。改修前の阪神芝1600㍍は、スタート直後にキツいコーナーのある難コースとして知られていた。河内のエスコートで道中は中団に待機したラモーヌは、3コーナーからマクるように進出。直線で豪快に末脚を伸ばし、2着に1馬身□差をつけて勝った。「トライアルも本番も、河内騎手が上手く乗ってくれました。特に、ポンと出たうえで折り合いをつけた桜花賞は見事でしたね」 そう話した小島とラモーヌは、栗東から帰厩すると、今度は東京競馬場の出張厩舎に移動した。ラモーヌは、オークスの前に、トライアルの4歳牝馬特別に出走することになった。「本番前に同じコースを経験しておいたほうがいいですし、総合的に判断して使うことにしました」と奥平。 距離が延びる本番に向け、折り合い重視の競馬をしたラモーヌは、初対決となった2着のダイナアクトレスに1馬身半差をつけて勝った。「ただ、元々出ていたソエが、余計にひどくなってしまったんです。2戦目の京成杯3歳S(4着)のときはすごく痛がっていました。それが治っていた寒菊賞(1着)と、3歳牝馬S(1着)は、自信がありました」 寒菊賞から柏崎正次に乗り替わり、86年の年明け初戦のクイーンC(4着)まで騎乗した。次走、桜花賞トライアルの4歳牝馬特別からは河内洋が乗るようになった。奥平はこう説明する。「オーナーサイドの要望で、桜花賞に向けたレースからは関西の騎手にしよう、ということになっていました。浅見国一さんが、ほかの馬を頼まれても乗るなよと河内騎手を押さえておいてくれたんです(笑)」 3月16日のトライアルと4月6日の桜花賞に向けて、ラモーヌと小島は2月25日に栗東トレセンに移動した。「出張となると行きっぱなしの時代でしたからね。カイバをバリバリ食べるほうではなかったので、朝と午後のほか、夜8時にも、1日3回与えていました。だから、外で一杯飲んでからタクシーで戻ってカイバをつけて、また出かけたこともありました(笑)」 普段の調教は、かつて小島が所属した高木良三厩舎で同僚だった、二分久初の関西遠征で河内洋騎手が初めて騎乗。直線入口では後方に位置していたが、猛然と伸びて逃げるチュウオーサリー(左)を捉えたJRAダート変更となった新馬戦で3秒1の大差をつける圧勝トライアル前に栗東へ移動桜花賞後は東京競馬場へ桜花賞トライアル報知杯4歳牝馬特別

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