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私の航海は幸運にあふれていた。選選運゜あった。ろだったようにおもわれた。たミスターシービーを語るときの松山さんの日ぶりには、何やら裡に秘めた大きな恩いいれがある、と直感できたのは収穫といえた。月三トFlに、三歳四百ガ条件のいちょう特別を観戦したのも私の連のよさのひとつだった。ビンゴカンタが一マイルを1け抜けたレースだが、このときのカンタの瞬発力が私を魅了した。際に日分の眼で見ていなかったら、たぶん私は、のべつローテーションを狂わせて出進してくるかれを、どこかの想紙なんか信じない、たとえ間違って頑強なエゴイズムが、私をいつもビンゴカンタのほうへと向かわせたのだけれども、それもこれも、すべてはあのいちょう特別の一戦で受けた強烈な瞬発力の印象であった。かつて、コーネルランサーがマイル戦をレコードタイムで走り、やがてダービー馬となったことが私の記憶によみがえってきたのも運がよかった。日本のダービーも今やスピードで押し切るレースに変わりつつある、というのが私の実感だったから、スピードと鋭い決め手をもつビンゴカンタがダービーを勝っても何の不思議もない、とおもったのだ。ビーの宿敵として評上し、虎視眈々としてシービーの隙をうかがう刺客となって登場するところまでは、とても私の頭には思い浮かばなかった。とも私の運のよさのひとつだった。こけていうのだが、そのときの私には、ほんのわずかの確信も、ほんのわずかの根拠すらもなかった。たったひとつあったのは、誠心誠意馬をつくりあげてくる松山厩舎であってみれば、きっと第50囲ダービーに出走してくる馬の一頭くらいはいるであろうという、淡い、情けない予感だけであった。ト一月初旬という時期からいって、まだ、とてもダービー馬を語れるときではないとおもいます、と松山さんは前置きし、明日の新馬戦にミスターシービーが出走します、まず、勝てるとおもいます、といった。この時点で、松山さんがシービーの将来にどの程度の夢を抱いていたかについては、到底私ごときには判断できかねた。クラシック路線に参加できうる馬、といったあたりだったかもしれないし、もう少し欲張って、阜月賞あたりを勝てそうな馬、という秘かな自信を秘かに燃やしていたかもしれないのだが、競馬ばかりはやってみなければ分からないものだという猜疑の鬼と化していた私には、松山さんの真底を見抜けるだけの眼力も余裕もなかったというのが正直なところだった。事実、その当時の競馬ジャーナリズムの評価からいえば、松山厩舎勢のなかでは、ノーザンテースト産駒の大器。フラウドシャダイ、底力のあるマルゼンスキー産駒のコレジンスキーあたりの人気が先行していて、ミスターシービーは未知の魅力をもった三番手、それも、やや離されかげんの三番手といったとこに、第huに松山康久調教師と私は、しばしはミスターシービーの運の強さについて語りあったものだった。シービーはほんとうに運が強い、と、もろもろの感慨を込めて語る松山さんのことばに、たしかに、と私もしたり顔でうなずいたものだったが、シービーが風邪というアクシデントを乗り越えて菊化買出走へのめどをつけたいま、私は、もう一度改めてシービーの述の強さについて考え込まざるをえなかった。運の強さ、とはいったい何だろう?私たちは、しばしば、ラッキーだった、運がよかった、という。しかし、人間であれ馬であれ、たんに「運」というひとことだけで窮地を切り抜けたり、九死に一生を得たりすることはできないものだ。たいていのばあい、その人間なり馬なりに、ある種の生命力の強さ、勝ち抜いていこうとする意志力の強さが備わっているからこそ絶体絶命、無死満塁のピンチを切り抜けることができるのだろう。そうした意味あいからいえば、たんに、運がよかった、と片づけられるのはシービーではなく、私じしんなので私は、ほんとうに運がよかった。掛け値なしに運がよかった。ちょうど一年前の十一月四50代めのダービー馬を探すという「宝探し」の旅に出た私は、翌日のは松山厩舎の門を叩いていた。なんら分35秒9のレコードタイムで駆しかし、ともあれ、祈馬戦を前にし松山厩舎訪間に先立つ一週間前のトカンタのあのすばらしい決め手を実しかし、そのカンタがミスターシー阪神三歳ステークスを観戦できたこ時点で見限っていたかもしれない。予も自分は自分の眼だけを信じるというかの確信なんらかの根拠があったかって?とんでもない。率直に打ち明49 四けいばiaaも0)かたりn

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