ヽし」った」r幸福論』のことだ。いいだろうか?1ヽ―ったまま馬房で死んでには思われる。寺山修司が早大在学中、ネフローゼで長い入院生活を送ったことは、よく知られている。彼はこんなふうに書いている。昭和四十七年、長い休養を余儀なくされていたダイセンプーが、格下から京王杯SH「だが、私はじぶんが十代の終りから三年半も入院して「人生を休場』したためか、青春時代を棒にふった馬が、なぜか好きなのであ寺山にとって競馬は人生の比喩であった。いや人生そのものが比喩といってもいい。しかし、「青春時代を棒にふった」とはよく言った。彼のオ能が花ひらいた素地は、この入院生活中に作られた。気の遠くなるほどの大盤の読書、思索と詩作、そしてなにやら怪しげなジャンルにまで及ぷ賂博の習熟、やがて主体的にかかわることとなる競馬との出会いらしきもの……。「人生を休場」したり、「青春時代を棒にふった」とは到底思われないのだが、そ‘込名えるのは私たち病気とは無縁の青春期を送った、健康な人間の論理であり心理でもあるのだろう。声で実、寺山の死後いくつかの記事は、そのころネフローゼで入院していた患者のなかで、現在まで生き残ったのは彼ひとりだったと報じている。寺山修司にとって、病気と死の騒は人生の同伴者だった。そしてごく若いころには、もうひとつの親しい同伴者もいた。少くとも昭和三十一i二年、私の前に現われたころの彼には貧乏とい、2免の同伴者がいた。その寺山がょチェホフ祭』と題した短歌で世に出たことは暗示的である。チェホフもまた、病気と死の騎と、そして若いころには貧乏を人生の同伴者としていた。寺山修司は死について語ることが多かった。けれども実は、それは死一般であり、観念としての死であり、形面上学であった。自己自さて、私が死ぬときには、と自問してみることがある。どんな死に方が一番人はなかったのではないか。詩は究極において生をうたうものだから、あらゆる詩人は死をうたわざるを得ない。だが、その詩人のなかで彼ほど死を語った者はなかったように私IIと呼ばれに出走してきたとき身の、それも具体的な死について語ることは極めて稀だったのだが、その数少いものがエピグラムに掲げた一節である。これは1競馬ノンフィクションたシリーズの一冊ょ旅路の果てlbのなかで、かつてのダービー馬コダマの死にふれた文章なのだが、彼は自問している。永井荷風は貯金通帳をふところに「行き倒れ」した、三島森田必勝と心中したし……と考える。そして例の寺山ならではの方法で、詩が引用される。演歌ではなく、ここでは珍らしくマリー・ローランサンだ。死んだ女よりももっとかわいそうなのは忘れられた女ですこうして寺山は「いた」といわれる三冠馬のセントライトの死に方に魅かれながら、結局こんな結論にたどり着く。これは彼らしくない、それどころか意外なほど常識的で陳腐である。ということは、まだ寺山にはそのころ具体的な死の恐怖が訪れていなかったのか。それとも常識的で陳腐に恩った私が稚いのか。「生きている間は、随分と人騒がせなことをやったから……」と私は恩った。「せめて死ぬとき位は、人知れず、ひっそりと姿を消したこのころはまだ死の予感はない。病気と死の賢が同伴者だった彼も、まだ直接的に自己自身の死を考えるほどではなかった。この一節には、読む者を突き刺すほどの力はない。けれども彼自身の具体的な死に方をではなく、形而上の死について語った部分は衝撃的である。同じ項の一節。「他者の死は、かならず思い出に変る。思い出に変らないのは、自分の死だけである。」寺山修司ほど「死」について多く語った詩翡夫は自衛隊員とマスコミの見ている前で132 第50回日本夕'—ヒー観戦私記寺山修司へのレクイエム萩元闊彦けレヒフロプユサ)
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