の4コーナーように10秒5で駆け抜けた。ウポーイとテンポイントはスタ◄昭和52年有馬記念。トウショートからゴールまで馬体を接して素晴らしいマッチレースを見せた。史上に残る名腸負だった。写真は上がー周目、下が2周目「まだ現役で走れるのに」「惜しいなあ」という声の中で天馬は去っていったのだ。「功なり名を遂げた男は引き際が肝心」と言うが、最近トウショウボーイほど思い切りのいい引退を私は知らない。だが、敗因について武邦彦騎手は「絶対距離じゃない。雨だ」と力を込めた。ただ、ゴール前脚が上がらなくなってしまったのを見ると、やはり血統からくる距離不安が影響を与えていたと思われてならないぐそれにしても、同じテスコボーイ産駒のホクトボーイ(母系が長距離系)が優勝したのは皮肉である。トウショウボーイはこのあと12月18日の中山の有馬記念が引退レースとなった。天馬の愛称のあるトウショウボーイはスタートから果敢に逃げ、競り合うようにライパルのテンポイントも行った。すさまじいばかりの両馬のマッチレースはゴールまで続いた。これぞ完成されたサラブレッドの戦いを思わせた。一度もゆるみのないペースで、両馬は最高のレースを展開した。感動的であった。馬券なんてどうでもいい。どちらも負けるな、の気持ちでファンは声援を送った。最後の最後でテンポイントが%馬身抜け出して悲願の”打倒ポーイ”を果たした。グリ—ングラスが3着であった。武邦彦騎手は「ゴール前でボーイが差し返しに出た時はさすがに強い馬だと思った」と言った。保田調教師も「勝ち負けはともかくあれだけ走ってくれれば満足です」としみじみ話した。間違いなく、競馬史上に残る名勝負の―つであった。テンポイントが勝って強い月8200討を風の馬だなあ、と思ったが、トウショウホーイが負けてな200以付近でんとも悲しかったJ敗れはしたがトウショウボーイには王者の風格が漂っていた。立派な花道であった。テンポイントとはそれまで五度対戦し、先着を許したのし、最後の一騎打ちに負け、トウショウボーイは潔く退くことを決意した。もう戦う必然性はなかった。年が明けて53年日、トウショウポーイは東京競馬場でファンに別れを告げた。思い出の皐月賞ゼッケン5番をつけ、池上騎手が四コーナーから追い出すと最後のは菊花賞の一度だけ。しか、▼昭和53年1月8日、天馬は惜しまれつつ、しかし潔くターフを去った1
元のページ ../index.html#35