AJHKとなった。日のケホープが当然顔で勝ったが、人気は相変わらずハイセイコーだった。月十日の中山記念(千八百ば)で大差勝ちを演じたNホープと互角対決へ」と書き立てた。そして、また敗れた。タケホープが無敵の差し脚で倦勝し、ハイセイコーはなんと六着。「やはり三千二百”いは長過ぎた」と言われた。この敗戦で予定されていた米国遠征もご破算百ば)と同二十三日の高松宮杯(二千討)を連勝した。宝塚記念ではデピュー以来十八戦目にして_番人気の座を明け渡したが、圧倒的なレコード勝ちで“中距離の王の後、秋に三戦、有馬記念二着を最後に現役生活とおさらばした。公営と中央を合わせて二十二戦十三勝。杯以来十力月ぶりの優勝で、新聞は「天皇賞でタケハイセイコーはその後、六月二日の宝塚記念(二千二者IIというニックネームを頂戴した。ハイセイコーはそハイセイコーが負けた同じ日、大相撲夏場所で全勝優勝を遂げた大関・輪島(二十五歳)が横綱に推挙され出しで初土俵を踏んでからわずか二十一場所の超スピード出世最高位をつかんだ天才児は「オレはいい星の下に生まれたんだなあ」とうそぶいた人と馬との差こそあれ、勝負の世界の皮肉な明暗である夏を府中の馬房で過ごしたハイセイコーは、十月二十一日の京都新聞杯から再スタートを切ったが、二着。三週間後の十一月十一日の菊花賞でもあわや勝ったと思われた採間、タケホーフに差されてハナ差負けした_二敗目を喫したハイセイコーだが、敗北を続けても一番人気に祭り上げられた。暮れの有馬記念のファン投票では二万四千票を集めてトップ当選した。十二月十六日のレース当日も一番人気だった。好位を進みながら先行馬を捉えることができず三着と敗れた。ハイセイコーは年度代表馬選出で、異例の大衆賞を与えられた。年が明け、五歳となったハイセイコーは_月二十稼いだ賞金は当時として破格の二億_千九百五十六万六千六百円だった。ハイセイコーは昭和五十年一月六日`東京競馬場で引退式を行い、翌七日新天地の新冠・明和牧場に向かっ種付けされ、その年の産駒カツラノハイセイコが早くも父親の勝てなかったダービー(五十四年)と天皇賞(五十六年春)を制している。このほかタッュウチカラ(中日新聞杯)、ライフタテヤマ(シンザン記念)のステークス・ウイナーを出しており、内国産種牡馬の雄として今も人気者だ。六十一年は六十頭に付ける予定で、すでに一_一月十日から種付けを開始した。春まだ浅い新冠には雪も残っているが、ハイセイコーは午前五時半から放牧場に入り、種付けのない時は元気に跳び回っている。今年十七歳を迎えたが、まだ若く、六百けを超す巨体は魅力的である。雪が解け、日射しが暖かくねて明和牧場を訪れることだろう。たハイセイコーが生まれた昭和四十五年に幕下付けたシンジケート種牡馬として初年度から七十二頭になると、ハイセイコーのファンが今年も観光パスを連C杯に出走し十頭立ての九着と怜敗したタだが、ハイセイコーにも五分の魂があった次の三▼昭和51年に生まれた長男カツラノハイセイコは54年のダーピーを制罰、6年前の父の無念を晴らしたこの父子の演じたドラマに多くのファンは、戻した▲北海道新冠町の明和牧場で種牡馬になってもハイセイコ一人気は衰えを知らず、観光の名所にもなった25
元のページ ../index.html#39