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e33かべた。どこへなに悪い話ではないと思うが....o勢をあげた。題となった。稗田虎伊は、尾形藤吉、伊藤勝吉ともに、名伯楽として聞こえた人だが、と伝えられている。になった。三歳時は七戦五勝、朝日盃一=歳ステ71 い。よし、これは一っオレがやろう。りした。の健闘をした。いしかなかった。いまでこそ、どこのあんたのところさしに,そこで笠井が説明した札幌の田中留治という人が、馬喰から馬を買った。トウルヌソルの子で腹にはトジジロの子が入っているJどこか預ってくれる人はいないか、と相談を受けたので、誰か探してみましょうと答えた。高楠と話しけていたところへこの話である。バウアーヌソルというその牝馬はサラ系ということであるが、むしろ、現在のうちには分相応なのかもしれな親父は反対であっても、なんとか説得しよう。二十五歳の青年隆雄は、こう決心すると、笠井らを促して、武田家にとって返した。父の重四郎は高橋家から養子に迎えられた人で、堅い一方であったが実家が馬産家だったので、昭和七、八年ごろからアラブの繁殖牝馬をもった。まだ新冠では、軽種の生産者はごく僅かしかいなかった時代である。天覧馬も出し、記念の立派なメダルをもらった。幼い隆男は無上の名誉と感激し、学校で作文に書いた子分けは気がすすまないという父親を、隆雄は熱心に説得した。彼はなんとしてもサラプレッドを扱ってみたかった。父も息子の熱意に打たれ、ついには折れた。こうして名牝バウアーヌソルは、武田重四郎に繋養されるようになったのである。そのとき腹に入っていたのが、トシシロの子で、のちにキタノサカニの名で九勝をあげた。次の子は父がマツミドリのダイイチヒガシヤマで三勝、ケゴソの勝った皐月賞で三着二十八年生まれがトサミドリの子でキクノオー。当時は新冠全体でサラプレッドの生産頭数は二十頭ぐらたところ、お宅がよかろうというので、いま頼みに行ったんだが、親父さんはf分けはいやだというんだ。隆雄は、かねがねサラブレッドの繁殖が欲しいと思っていた。アラブもよいが、競走馬はなんといってもサラプレッドだ。だが価格の点でちよっと手が出ないeほとんど諦めか牧場に行っても自動車をもたないところはないが、そのころは自転車があればいい方だった。また、テレビなどもなかったから、お互いに行ったり来たりでお茶を飲みながらおしゃべりをするのが唯一の楽しみだった。楊合によっては朝から酒(それも大抵は焼酎だったが)になって気生産者が集まれば、当然、馬の話になる。どこそこのクモハタの子がいいとか、新輸入馬ライジソグフレームはどうとかいった類いである。武田重四郎のトサミドリの子は、こうして、たちまちにして日高中の話並び称せられる大調教師であるとと幼駒のころのキタノオーをみて、「オレもずいぶん長い間、数多くの馬をみて来たが、これほど見事な馬をみたことがない。この馬をつれ外国で競馬をやってみたい」と語ったしかし、キタノオーは、田中留治氏の持ち馬として、中山の久保田金厩舎に預託された。当時としては破価、ダービーの一着賞金二百万円の時代だった。そして、新進の勝尾竹男(のちに伊藤姓)に乗られることキタノオーは前評判にたがわず、ークスでは、五戦無敗の尾形厩舎の格ともいうべき二百万十万円の評ハイセイコーの母ハイユウ

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