I1H1I岡田光業、とう」に出た。1名血の流れ“を昭和―――し難いIJl心いで仕事も手につかなくなった。た最後の声でもあった。1名牝の系譜“赦さなかった。気合だよ」「優駿」に連載したI名牝“は毎年刊行して、1心11う。好きな競ようなことらしい。者であった。いま岡田さんの訃報に接し、なんとも名状「まアもう少しいてもらいたいけど、君も忙しいんだろうから、あんまり引留めるわけにはいかないな。どうも忙しいところをありがちょうど一週問前、虎の門の川瀬病院にお見舞に行き、辞意を告げたときの岡田さんの言葉だった。それはまた私が岡田さんに接しそのとき、手術は四月五日の予定だといっていた。とにかく、このままではダメだという診断なので手術を受ける決心をした。巧く行くかどうか、五分五分だと思っている。まア一種の賂けだな、と淡々と語っていた。その賠けは裏岡田さんは、既に入院を決忍したときから、死の覚悟はできていたのだと馬を仕事とし、思いのままに生きてきた生涯に悔いはなかったことだろう。だが、いまの平均寿命からいって、われわれ後輩としては、もっと生きていてもらいたかった。岡田さんとお付合いいただくようになって十数年になるが、私はこの惇敬すべき先輩の経歴をはっきり知っているわけではない。が私の知っている範囲内で簡単に記すと、次の東扇外国語学校(現大学)のロシア語を卒I実業の日本社“の絹集者となったが、競馬が好きで、のちに時事新報の競馬記者となった。昭和のはじめごろのことである。以来、昨年春、共同通信を退くまで、競馬ジャーナリズムの重鎖として活躍した。岡田さんの功績は、競馬の本質を広く知らしめたことだろう。競馬が単なるバクチとしかみられていなかった時代から、血統を説き、競走体系にふれ、競馬のあらゆる問題についても、鋭く正確な論断をくだした。まだ、馬券についても名人の域に達していた。競走馬一頭一頭の成績を、岡田式とでもいうべき独自の方法で記入し、一日に一鞍か二鞍、これはと思ったレースだけ馬券を買った。無論、競馬のことであるから、百発百中というわけにはいかない。外れることもある。だが、一開催とか一年とか長期を通じれば絶対プラスであった。稀れにみる競馬必勝もちろん、ここまで到達するまでには、少なからぬ月謝も払ったことだろう。だが、負け鎌いの性格は、競馬に負けることも自らに酒も強かった。酒好きの私は、岡田さんのお伴をして飲み歩くことも時おりあったが、話はいつの場合も競馬のことで終始した。ほかの話はほとんどした覚えがない。ただ一っ忘れられないのはケンカの話である。「ボクはね、若いころはケンカもしたが、負けたことはなかった。別に腕力が強かったわけではないが、ケソカなんてものは、君、という岡田さんの言葉を聞き、なるほどこの人は気合の人だと思った。十何年か前に吐血したことがあった。そのときも、ろくすっぽ医者にもかからず、気力だけで癒してしまった。一言でいえば勁い人だった。岡田さんは、杉浦謙三のペソネームで、多年十八年に自費出版し、翌年はを出し、その後も第八巻まで出ている。貴重な労作である。この著書により、競走馬の血統につき、開眼させられた人も少なくないはずである。競馬予想家ではない論評家は残念ながら、日本には何人もいない。その一人岡田さんを失った競馬界の損失は大きい。(宇佐美恒雄)35 --郎さんを偲ぶ
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