ダJな産業。遠野駅より車で10分(約10キロ)の田チスは繋捉されている。敷地は約13ヘクター戦場で活躍したイケズキ、スルス、‘、といったっしゃる。55年の栃木国体の総合馬術で優勝必要なのである。54年にはグランドマーチスの2歳馬が馬市120万円で売れましたよ」と。2年かが子のようにつぶやいた。ます」と頭を下げたものだ。その引退式は51年11月13日、京都競馬場で間、千頭の軍馬を生産し、秋の馬市は10日間は一筋の涙が流れていた。大平洋側の釜石から西へ約43キロの遠野市。イツで調達した牝馬もいます」と藤村氏はおけの2着に「仕方ない」といさぎよかった。伊藤師も悔しさを隠すかのように「このあと、京都大障害を使って秋にまた来るか」と男らしく引き下がったものだ。だが、この中山大障害から1か月後の京都大障害で骨折しようとは…。運命のいたずらか。「何回もかまれたけれど、かわいいやつやった。あんな馬はもう二度と出んだろう」と宮本さんはわタフガイも左前第一指骨骨折、全治6か月には勝てなかった。完治して、次走、レースに出るとしてもすでに9歳。伊藤修調教師は「あれだけのりっぱな成績を残した名馬、秋には引退式をさせてやります。お見舞の金品を下さったファンの皆様に深く感謝しており行なわれた。コンビの寺井騎手騎乗、中山大障害四連覇当時のゼッケンをつけてそのときの実況録音が流される中、スタンド前を往復。場内のファンからは盛大な拍手がわきあがった。手綱をとって歩く宮本きゅう務員の頬に日本中央競馬会の種牡馬として買い上げられた障害王はこのあと、岩手県遠野市で遠野市乗用馬生産組合の管理のもと、余生を過すわけである。中央競馬会から軽種馬協会へ寄贈されたグランドマーチスを遠野市がら3年更新で貸し付けを受けている。民族学の権威・柳田国男の「遠野物語」で有頭を付けていま(55年)9で年目。それを成功させるためにした「照山号」は「父が中央競馬で走っていたヤマドリ号の子です」と同氏は指摘下さったが、ヤマドリもタケプエもいまはこの乗用馬育成センターにはいない。中間種に障害の血統をつぎ込むことにより、素晴しい障害馬を作り出すにはグランドマーチスは是非ともに出場し、好評だったそうだ。藤村氏は「一番高いのはいまでは「すっかり種馬らしくなり、以前の荒々しさがなくなりました。種付けも上手です」と同氏。産駒は「体型とすれば満点に近いが、ちょっと型にはまっている嫌いがあり、もう少し大きくあって欲しい。でも、気性はそっくりで根性があります」とのこと2、3歳馬を預託育成するところだが、それらの約50頭とともにグランドマーチスは元気一杯。「いずれはこどもが乗馬、障害の競技会に出て良績を上げてくれること」を望まれている。グランドマーチスの主目標は産駒がオリンビックの乗馬、乗馬クラブ、大学の乗馬部でよい成絞をのこすことにある。馬の生産は遠野の伝統ある産業のひとつ。乗用馬を本格的に作っているのは当地だけでもある。遠野市で乗用馬生産に乗り出してからことしも、障害王よ、頑張れ/名な遠野は民話のふるさとである。その「遠野物語」の券頭に「遠野郷は今の旺中、上閉伊(かみへい)郡の西半分、山々にて取り囲まれたる平地なり」と記されている。さらに「遠野町は南部家一万石の城下なり。山奥には珍しく繁華の地なり。以前は七つの渓谷各七十里の奥より売買の貨物を衆(あつ)め、その市は馬千匹、人千人の賑わしさなりきjとある。現在は人口約三万二千人、国鉄・釜石線の盆地の町遠野市は酪農、肉牛生産が主園地帯の一画に市営の乗用馬育成センターがある。近くには民家が散在する程度の静かな蹂境のもとにある同センターにグランドマール。放牧場はその半分。そこには中間種であるノルマン系セルフランセ種ボウソデイユ号とグランドマーチス号の種牡馬がいる。遠野は昔から福島県の白河、青森県の三本木(現十和田市)と並び、北海道を除く、軍馬の三大馬産地であった。戦前は遠野だけで年もつづいた土地である。遠野市牒政課長であり、乗用馬生産組合の副組合長でもある藤村哲也氏は「グランドマーチスは当地にいる中間種の牝馬25頭前後に毎年、種付けしています。そのほかサラにもす」という。軍馬は中問種であった。昔々、名馬は岩手県辿野の南部駒だ。「中間種の牝馬25頭」の中にはそれらの子孫がいることだろう。しかし、「有名かどうかは知りませんが、オリンビア号といって西ドイツのミュンヘン・オリンビックのとき、日本が現地西ド食7、85 Ot 乗用馬育成センターはセリで買い上げた* 29 *
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