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なん年に一頭という三冠馬がでた。この先いつまた三冠馬がでるかわかったものではない。シンザンという傑出馬を現実にみられたわれわれは幸いである。ここに三冠を記念してシンザンの特集をした。籐〗尋霜雰一と互を伝える。調教師に語った。「なんの子や?」「ハヤノポリさ。ほれリソデソ、ォソワードスタンの下だ」「なんぽいうてる?」(編集部)りゃな」いのは当然ともいえた。「まァ見るのはタダだから」も、あれは一00万なら買っていいと思っていた。しかし、ニ―10万はちょっと高いようる。数ヵ月後、武川調教師はllJび北悔道にでか眠ってしまった。橋氏の牧場へ行った。樫1さんも欲しいような口ぶりだったといっ卯助氏に相談した。「ヒンドスタソの仔だし、三百万はださなけ「そりや高い。じゃ見に行かんわ」この年はダービーのハクショウをはじめ、皐月賞のシソツバメ、桜花宜のスギヒメ、春の天皇宜のヤマニソモアーといずれもヒソドスタソの仔が制覇していて、ヒソドスタソの声価は一躍あがっていた。ヒンドスタソが高「ま、そういわんて、あすは案内するから見るだけは見てもらおう」「あかん、そんな高い馬よう買わんわ」といってその日の話は終った。独り床の中に入ってから、武田調教師は睦れないままに、さっきの話を考えていた。/めの系統はとにかく走る。リソデソにしてな気がした。からだは小さいし、一せいぜいと思っていたが、抽せん馬に買われて、よう走りおったわい。春、これに勝てばダービーでもおもしろいという特別にも勝っ昭和36年6月、ダービーが終った直後である。ダービーはヒソドスタンの産駒ハクショウが、脚部の不安になやまされながら、ついに本領を発揮して制覇した。前年のダービーをコダマでとっている武田調教師は、「ことしはしかたない。だが見てろよ、またダービーをいただいてやるぞ」と思っていた。次代のスターをスカウトしようと、北海道ヘ武田調教師が飛んだのはそんなときだった。日高に行くと、必ず、荻伏牧場の経営者でもある斎藤卯助氏の宿に泊まる。亭主の卯助氏は、待っていたとばかりに近在の消息「松橋のところに、ヒンドスタンの男馬が生まれていて、なかなかいい」と卯助氏は武田た。その下のオソワードスタソもよう走った。オレが見たのは、淀の天畠宜だったが、あのとき四着とはいっても、いい脚を使ったのを党えている。それにバッカナムビューチーじゃないか。オレが乗って、あれだけ成絞をあ研た馬だし、ハクリヨウもメイヂヒカリもでている。よしや、馬見てよかったら、三00万でも買うとやれ」と思っているうちに翌朝、斎藤卯助氏と富岡消己氏の案内で松そのヒソドスタソとハヤノボリの仔は、生まれてまだニカ月しかたっていなかったが、性太のなかなかよい仔だった。低の父はハヤタケで、あまり。ハッとしないが、その先はトウルヌソルとバッカナムビューチーである。よく見ると、父のヒソドスタソよりもトウルヌソルが瀬著にみられる。これは、ひょっとすると大物かもしれない。そう屈うと武田調教師の決断は早かった。松稿の爺さんは、オソワードスタソの馬主ている。誰を馬主にしてもよい。とにかく買っておこうと、即座に約束した。しかし、この牧場にいつまでおいておいたのでは、巡動もろくにできない。話が決まると、すぐ斎藤「ここにいたんじゃ相撲一っとれないじゃないか。あんたんところで預かってくれんか。お宅なら友だちも多いから」というと、斎藤氏も二つ返事で承諾した。そうして離乳斯が米るのを待っと、シソザソは松稿氏の牧けた。まだ手扮をそろえる必要もあったし、買った馬の梯子も見たかった。たまたまそのとき樅元幸吉氏と一緒になった。橋元氏は何00万が年か前から武田調教師に馬を預けている問柄である。当然、この前バッカナムの系統でヒソドスタソの仔を買ったという話がでた。それじゃ見に行こうということになり、述れだ場から斎藤氏の荻伏牧垢に移されたのであ川印武田師シンザンを買う田田~.............................. ..................... `特 ...................‘ ■遭■■直16

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