JRA Dressage Training
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111あとがきにかえて私は、8歳のころ初めて馬に乗りました。私の父が日本中央競馬会(JRA)に勤めていたことと、馬事公苑の近くに住んでいたことから、私と馬との関係が始まりました。私が所属した弦巻騎道スポーツ少年団では、小学2年生から山谷吉輝氏(当時JRA馬事公苑職員)のもとで軽乗を3年間訓練し、同時に道産子馬や宮古馬の在来種、ポニーなどに頭絡を付け、裸馬に跨って自由に走路を走り回っていました。今では考えられないほど、無謀なことをしていたなと思います。しかし、そんな中から得られた感覚は、今でも私の中で生きています。その後、思春期になってすっかり馬と距離を置くようになり、友人宅でエレキギターをかき鳴らす日々の方が多くなっていきました。しかし、いつの頃からか、自分は「他の多くの人が乗れない馬に乗れる」という恵まれた環境にいることに気付き、再び馬に乗り始めました。こうして、18歳までJRAの指導者、施設、そして馬たちから多くのことを学ぶことができました。普通のサラリーマンの息子が馬に乗り続けられたのは、JRAの乗馬普及活動の恩恵を受けることができたからだと思います。高校3年時に、北海道はまなす国体に参加する機会を頂き、篠宮寿々海氏(当時JRA馬事公苑職員)とパンタレイ号に少年馬場優勝に導いてもらいました。その競技成績を持って、明治大学のスポーツ推薦を受験したものの、不合格。それまでのらりくらり生きてきた自分にとって、初めての大きな挫折でした。他大学から有難いお誘いを頂きましたが、明治大学への憧れが強く、浪人して予備校へ通わせてほしいと両親にお願いしました。そのとき父から、「男には、死に物狂いでやらなきゃならないときがあるんだぞ」とだけ言われたことを覚えています。それから、合格するまでは馬の顔も見ないで勉強すると決めましたが、今まで勉強をさぼってきたツケは大きく、1年間ほぼ毎日13時間勉強しても模擬試験での結果は合格圏外でした。しかし、受験直前には成績もようやく上がってきて、望みが見えてきました。スポーツ推薦での僅かな加点も得ましたが、最終的には一般入試を受けて合格できたことは、今でも誇りに思っています。しかし、せっかく入学したものの明治大学は全国から優秀な学生が集まってきているため、レギュラーの座ははるか遠く、競技会に出場することもできずに馬付きや競技補助員として競技会を見ているだけでした。それでも、3年生からはなんとか競技に出場できるようになり、そこで出会えたサラブレッドの明菱(めいりょう)号から、馬場馬術の難しさと楽しさ、そして努力は必ず結実するということを教えてもらいました。練習はきつかったものの、法学部を4年間で無事卒業し、幼い時からの目標の一つであったJRAに入会することができました。入会後は馬事公苑に配属され、当時の日本馬場馬術界の第一人者である中俣修氏(当時馬事公苑職員)の指導を受けることになりました。そこでは、今でも思い出したくないほどの厳しい練習の日々で、来る日も来る日も鐙上げ訓練ばかりでした。しかし、それは今の騎座の安定に繋がっています。そして、中俣氏が調教したサラブレッドのサニーボールド号からは、中俣氏の騎乗方法と調教方法を学ぶことができました。その後に騎乗することになったデンマーク産のロゼッタ号からは、牝馬特有の気難しい気性への対処法と、まったく譲ることのない硬い口向きの再調教の方法を学びました。その後、「日本で乗り方が固まってしまう前に、本場で学んでこい」との渡辺弘氏(当時JRA馬事部職員)の尽力もあり、1999年3月から2001年3月の2年間のドイツ研あとがきにかえて

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