競馬コラム


第17回  頼れる職人 河内 洋
昭和61年 エリザベス女王杯(GI) 優勝馬メジロラモーヌ   
 寡黙な職人気質。玄人好みの頼れる騎手。河内洋は、デビューして何年も経たない頃からすでにそんなベテランのようなイメージをまとっていた。若手らしい不安定さや軽率さとは無縁の高い技術で、早くから「関西の至宝」などと呼ばれた河内は昭和30年、大阪府に生まれた。祖父は京都の調教師、父も地方競馬の騎手で後に調教師という競馬一家。中学生の頃には調教に跨っていたという河内は、中学卒業後、栗東の武田作十郎厩舎に入門する。兄弟子には武邦彦がおり、後には弟弟子として武豊が入門する厩舎だ。
 見習騎手になるための規定体重を2年続けて超過し、あらためて馬事公苑の短期騎手課程を経て19歳で騎手となった河内は、いきなりその腕の確かさを見せつける。デビューの昭和49年に26勝、関西7位の好成績で関西放送記者クラブ賞(新人賞)を受賞すると、5年目には68勝で関西2位に。初の大レース勝ちは昭和54年オークスのアグネスレディーで、秋にはハシハーミットで菊花賞も制した。翌55年には72勝で全国リーディングを獲得。7年目、25歳だった。
 以降もカツラノハイセイコの昭和56年天皇賞(春)、ヒカリデユールの昭和57年有馬記念など、確かな仕事でファンや関係者の信頼を獲得していった河内は、やがて時代を象徴する2頭の名馬と出会う。昭和59年、グレード制導入とともに新設されたGI マイルチャンピオンシップを制したニホンピロウイナーは、翌年も連覇。安田記念も勝ち、「日本競馬のスピード化」の合言葉とともに充実が図られた短距離路線における最初の王者となった。また昭和61年にはメジロラモーヌで桜花賞、オークスに加えてエリザベス女王杯を制覇。「牝馬三冠」という新時代の概念を体現している。
 2頭で数多くのタイトルを獲得した昭和60、61年、河内はともに年間100勝を超え連続で全国リーディングを獲得した。昭和63年にはオグリキャップやサッカーボーイといった競馬ブームの中心を担うスターホースで活躍。通算1000勝も達成している。33歳での到達は、加賀武見の35歳を破る当時の史上最年少記録だった。11年前にオークスを制したアグネスレディーの娘アグネスフローラによる平成2年桜花賞勝ちや、ダイイチルビー、ニシノフラワーでの数々のGI 制覇により「牝馬の河内」という異名が生まれたのもこの頃だ。
 平成5年ジャパンカップのレガシーワールド。平成10年香港国際カップのミッドナイトベット。実際に「ベテラン」の域に入っても、河内に衰えなどは見られない。ちなみにミッドナイトベットは後に種牡馬入り。JRAで走った産駒はわずか2頭だが、うち1頭のミッドナイトトークが調教師となった河内に開業後初勝利をプレゼントしている。
 そして平成12年、45歳にしてついに初めてのダービー制覇の瞬間がやってきた。馬はアグネスフローラの息子で、アグネスレディーの孫にあたるアグネスフライト。これ以上ないほど思い入れのある馬で、弟弟子である武豊エアシャカールとの馬体を接しての激しい追い比べを、鬼の形相でハナ差制した。またこの翌年、河内はアグネスフライトの弟アグネスタキオンで皐月賞を勝ち、史上5人目のクラシック五冠完全制覇を達成。結果的に最後の大レース勝ちとなった馬は、最初に大レースを勝った馬の孫だった。
 平成13年に増沢末夫、岡部幸雄に続く史上3人目の2000勝を達成した河内は、翌14年もトシザブイの目黒記念やザッツザプレンティのラジオたんぱ杯2歳Sなど重賞5勝。最後まで「頼れる男」のまま、平成15年2月に引退、調教師へと転身した。
昭和60年 マイルチャンピオンシップ(GI)
優勝馬ニホンピロウイナー
 
平成4年 桜花賞(GI)
優勝馬ニシノフラワー
 
平成12年 東京優駿(日本ダービー)(GI)
優勝馬アグネスフライト
 
河内 洋(かわち・ひろし)
昭和30年2月22日生 大阪府出身
昭和49年騎手免許取得 平成15年騎手引退
JRA通算成績:14940戦2111勝(重賞134勝)
主な勝ち鞍:優駿牝馬(アグネスレディー、メジロラモーヌ)、菊花賞(ハシハーミット)、天皇賞(春)(カツラノハイセイコ、メジロブライト)、有馬記念(ヒカリデユール)、エリザベス女王杯(ロンググレイス、メジロラモーヌ)、マイルチャンピオンシップ(ニホンピロウイナー2回、サッカーボーイ)、安田記念(ニホンピロウイナー、ダイイチルビー)、桜花賞(メジロラモーヌ、アラホウトク、アグネスフローラ、ニシノフラワー)、スプリンターズS(ダイイチルビー、ニシノフラワー)、ジャパンカップ(レガシーワールド)、東京優駿(アグネスフライト)、皐月賞(アグネスタキオン)

2014.11.15 レーシングプログラム掲載

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