吉川英治氏と競馬
井上康文

 文豪吉川英治氏が逝去された。立派な一人の、ほんとの人間、芸術家を、遂に永遠に失つてしまつた。寂寥をひしと感ずる。

 吉川さんのことは、国民の生活の中に浸透した文学について語ればいい。少年の頃からかなり苦しい生活の中に育ち、独り誠実に生きるために精進し、ただひたすら文学に生きた努力は実に立派である。そして芸術家として、一人の人間として、その苦しい生活の中で磨きあげてきた。私は、その吉川さんの人間像を書くことの礼儀を知つている。しかしここでは、求められて、吉川さんがひとり愉しみをもつて、胸を躍らせていた競馬のことを語る場に立たされたので、吉川さんと競馬の挿話の、ほんの少しを書き、ここにも人間吉川英治の立派な姿があることをみつめたいと思う。

 吉川さんは逢うといつでも、実に心晴れやかな笑いを湛える。白い歯なみのよい、温和な唇と、鋭い眼の光りと、邪念のない、善意の笑いを凛とした顔に見るとき、私はじかに誠実と純粋をもつてその立派な人間に相対する礼をもつ。そのとき、私は芸術に磨かれた人間の美しさ純真さを感じる。吉川さんとの対面はいつもそうであつた。

 私は調教師田中和一郎さんの厩舎の隅にある応接間で吉川さんと知つた。菊池寛氏とは戦前、まだ菊池さんが小石川の富坂町にいる頃、私は新小説の記者として、新進作家菊池寛氏の原稿を頂くためにかよい、将棋などをさして親しかつたが、吉川さんとは、吉川さんの遊び場で知つたわけである。

「中央公論」で文学者の競馬についての座談会を載せる企画を立てたことがあつた。あれはもう五、六年も前の、あるいはもつと前のことであつたかも知れない。その中央公論を探したが、どうしても見つからないので、そのときの話をそのままここに書くことが出来ないのは残念だが、座談会の顔振れは、吉川英治、舟橋聖一、富田常雄の三氏で、私が司会をしたのであるが、編集長の篠崎凡氏が私の家にきて、こういう企画を立て、舟橋、富田両氏の快諾を得たが、吉川さんに難色があるので、私から話して貰えないかということであつた。

 私は自分もいろいろの経験があるので、中央公論で頼みにいつて承知をされないのに私が頼んでも無理だと思つたが、それでは編集のプランをかえなければならないので、編集者の苦哀を察して、ともあれ私から吉川さんに頼んでみようとひきうけてしまつた。

 次の日、ちょうど競馬が終つて田中和一郎さんの自宅の門の前で、これから自動車で帰ろうとする吉川さんに逢つたので、ちよつと挨拶をしてすぐ中央公論の意を伝えた。「僕が司会を頼まれしまつたんですけれど」と最後につけ加えると、「ああ、そう、じやあ、やりませう」と気軽に承知をして下すつた。

 編集長の篠崎氏はひどく喜んだが、私も非常に嬉しかつた。田中和一郎氏の客間で、文壇の雄、吉川、舟橋、富田三氏の競馬についての座談会が、その次の日曜の夕方から開かれた。このときの写真が中央公論社にある筈だが、実に愉しい座談会であつた。

 そのとき、馬主として、競走馬をもつているという感想をきいたとき、吉川さんは、
「それはね、僕たちは、子供が高級な機関車を買つてもらつて持つているのと同じなんだよ。子供はね、その高級な機関車がどこかこわれて走らなくなれば、かんしやくをおこすこともあるし、どこか悪いところを直して早く走らせたいし、いろいろ感情をもつわけだよ。だから僕たちのもつている玩具にたいして、あまりとやかく言われたくないんだな。僕たちは、それを唯一の愉しみとして遊ぼうとしているんだから。」

 このような意味のことを言われた。舟橋氏も富田氏も同感されていた。私ももつともだと思つた。田中さんのこの座敷では、菊池さんと将棋もさしたし、一緒に枕を並べて寝たし、調教のとき、私は毎週のように田中さんと寝たところで、自分の家のような感じがしてくつろいだし、和やかないい夜であつた。

 私はチグサが登録をうけつけられなかつたときも、田中和一郎さんの立場と、吉川さんの心をおもつて、いろいろ尽力したし、エンメイの事故のときも、その被害の原因を追究することにつとめた。エンメイのことにはあまり触れたくないが、後に吉川さんから次のようなお手紙をいただいた。

 私信をここに出すことはどうかと思うが、ここに吉川さんの美しい姿があるので発表させて貰うことにする。

拝けい
御詩集 天の糸 御恵与にあづかり ありがたう御座いました ずゐぶんお忙しくずゐぶん御過労だらうと察せられるのに依然 詩心をお失ひなき君に 心から敬意と御祝福をさゝげます が跋語を拝見すると 幼少からお弱かつた君が 近年まつたくお丈夫なのは その俗務のたまものやも知れません そしてその中から生れる詩が いよいよ大兄のほんとの詩になるのかもしれませんね
集中 崩れゆく美を拝誦して ふとエンメイのさいごの一瞬のいぢらしい姿を想ひよばれました あの日 奈良にをりましたので 古都の諸仏に心ひそかに 崩れゆく美の一片であつた彼に冥福を祈つてをりました 御礼までを 欝翠 日ましのあつさ 愈々ご自愛を
(原文のまま)

 この手紙は六月十六日、北品川四ノ七四〇番地におられるときに書かれたもので、31年6月16日の消印がある。私の詩集「天の糸」をお送りしたときいただいたもので、その「崩れゆく美」という拙詩は、

欅の梢で光りが囁く、
光りは はらはらとこぼれ、
地上の花は 音もなく散る、
音もなく崩れてゆく美を、
追ひかけてゆく情熱。

今日 生れ 生き、
今日 死に 滅び、
逢ひ そして別れ、
時の流れの中に消え去り、
死に絶えてゆくもののみが美しく、
思ひ出は 影をひいて、
永遠につながる。

 こういう詩であり、これが吉川さんの詩心にふれたのであろう。跋文に「生来病弱な私は、生きることに全く自信はなかつた。その自信のない肉体的弱さの上に、生活する力にも欠けてゐた。その日暮しに生き、それでも詩だけが救いとなり、生きる力ともなつてきた。―― 体の弱かった私は、医師から廿五、六歳まで生きるかどうかと云われた。それは十七歳の春肋膜で入院した時であつたが、それから思うと、私は人生の過剰を生きてきたような気がする」と書いてある。

 巻末のこの文章を読まれて、御自分の健康と過労とに思い及ばれ、私の体の健康のことも特に書かれたのだと思う。吉川文学の大作を著述されているそれこそお忙しい日々、一詩人の詩集を読まれ、その詩から愛馬の死をおもいおよんだ愛情の尊とさが、このお手紙によく現れている。

 吉川さんは初め中村一雄さん(中村広調教師の令兄)のところに馬を預けていたが、その後稲葉幸夫さんを信頼して、何頭かの抽せん馬を預けた。ナツグサというバラツケーの仔がいたが、これは実に走る馬であつたそうであるが、急性伝貧で殺してしまったそうである。

 稲葉幸夫さんはその頃の吉川さんを思いうかべながら、「実にいい馬主さんでした。第一級というより超特級といつていいほどの馬主さんでした。エンメイのことがあつて以後競馬場にもお見えにならないようでしたが、惜しい方が亡くなられて、競馬のためにも大きな損失でしよう」と言つていた。

 吉川さんは戦後菊池さんの関係から田中和一郎厩舎に馬を預けるようになつたが、吉川さんの愛馬では皐月賞をとつたケゴン、それにチエリオ、チグサ、ミカヅキなどが有名であり、この四頭の馬の名は、いま競走馬の母の名として、つねに私たちの目にも触れてきた。

 ことにチエリオはオークスでは頸の微差でジツホマレに敗れ、次の週のダービーでは惜しくも四着になつたが、牝馬としての逸品であつたし、ケゴンも皐月賞をとつてダービーにも期待されたが惜しくも三着であつた。このときは吉川さんも大変に残念がられていたようで、調教師の田中和一郎さんも「吉川先生にオークスとダービーをとらせたい」と口ぐせのように言つていただけに残念であつたと思う。

写真は吉川英治氏と愛馬ケゴン  そして再びチヤンスがきたと思ったエンメイが不慮の事故で、あんなことになつたのは、田中和一郎さんも悲痛なおもいをしたことだろう。

 しかし、吉川さんはミカヅキ、チエリオ、チグサ、ケゴンでは、充分競馬というものを味わわれたことであろうし、高級な機関車のこわれやすく、走れば快走するのに、どこか故障で思うようにゆかず、じりじりされたこともたびたびであつたろうが、それを少しも現わさず、いつも逢えばこころよく笑つておられた。

(37年9月11日)


 ――写真は吉川英治氏と愛馬ケゴン――




(「優駿」昭和37年10月号掲載)

※作品発表時の時代背景と作品価値を考え合わせて、当時のまま原文にて掲載いたしました。